自分は、昭和2年11月15日、商家に生誕しからしめられた。かくして、幼児、少年、青年の過程を経て、33歳の爛漫の春を迎えさせていただく。
この33カ年の間、自分に思い想像でき得ない真実を見聞知することにおいて、大いなる疑問を心に抱きながら、この原因を理解いたす智慧、力を具えていなかったのである。
1つ、
小学生の頃には、人の臨終に出会い、自分もやがて臨終をいたさなければならないとい うことを知って、安らかに安楽死をいたしたいという心に及んだので、自分の息の根を止め、どうすれば安らかに臨終ができるのかということを知りたく行い修めた。
しかし、安らかなる臨終が得られるということには恵まれなかったのである。
1つ、
人は何故に「幸せを、幸せを。」と誰しも願い求める「心の不自由」において暮らし、臨終を迎えなければならないのであるか。この好ましくない原因を理解することが、でき得なかった。
1つ、
自分はこの世にいのちと身姿をいただいて、生誕をしからしめられたのであるが、このとき自分は、世に「神妙」があるということを知るすべがなかったのである。
なのに、自分の身姿といのちのことについて知らざりしきにおいて、「自分」または「私」という言葉を語り、現在今日に及んでいるのか、と心に気付いたときの驚嘆は、舌筆難しく、眼の色と顔色が変わりて、血脈は一瞬止ったのである。
こうして、自分はこのいのちと身姿に疑問を抱いたのであるが、理解をいたすことはでき得なかったのである。
1つ、
人はなぜ、悩み苦しみ、また迷いの心が、誰しも世に生誕をみたる心において現じるのであろうか、理解でき得ない。また、人にはどうして、こんな短命と長命の2つがあるのだろうか。また、どうして、病に冒され苦しみ悲鳴をあげて臨終、または安らかなる臨終が現じるに及んでいるのであろうか。誰しもやすらぎを願っているのに.......。ということにおいて、この原因が理解でき得なかったのである。
1つ、
人は過去世より、名誉、財宝を好み、地位のある支配者になりたいということにおいて、互いに殺生を行い修め、かくしてこの因縁因果が、「戦争」ということにまで及んでいる。これによりてお互いに家族が願い祈る幸せが破壊されるということに及び、日常安きことあらずの悲運に遭遇し、暮らしと臨終を迎えなければならない。
ということを知りながら、何故に不幸なる罪を犯すのであるのか。自分にはこの殺生が理解でき得なかったのである。
人の心の行い修めし過去世より現世において、もろもろのことなるをここに思い知らされるとき、自分は、教育の本義とは、根本とはなんぞや。
教育は何を心に教え説くべきが、真実なのであろうか。この教育において、世界人類みな平等にて幸せを願い求めているのであり、教育者はこのことを知っているのだから、国境隔てなく、日常の暮らしの智慧と行いの修め方において、安心立命がこの世に定められるということを、正しく心の教育をして、伝師、伝導いたすことではないのか、と心に思ったのである。
でも、真実は、自分の理解力と学校教育について、必ずしも平等には及んでいないということにおいて、重大なる諸問題が人々の心にあらわれているではないか、と思ったのである。
宣ずるところは、身姿の問題よりも、身姿を具えている智慧、力に限り、これにとどまっているということを、心に思ったのである。
宣ずるところは此にあり、と思ったとき、それはそれは舌筆難しき、人生の哀れ悲しみにふけったのである。よりて、自分は、現世をして過去世を思い、明日未来人類滅亡の末法世を思う大慈大悲心が33歳の春を迎えたとき、いのちは水の大火に焼かれて、この火熱の水を汲み、耐え難しく涙して一室にこもり、人間創造主を求めさせていただいたのである。
「ただ、我一人のみの私利私欲のためにあらず。未来末法人類同胞の御為でございます。創造主、まさしく現世今日において実在あらしめたもうなれば、この心をしろしめしたまえ。」と、身を曲げ頭を垂れ、一心に悲願達成のために大清浄の大願を起立願ったのである。
「創造主在ることを心に知らざりしき、この学無学者にある無知なる心において、心に感知できるように、今この場においてお願いいたします。この心に観ずること難しくば、いかに世界人類大衆において神佛ありと御信仰ありしも、自分には信じて信仰いたす心に及ぶことができ得ない。」と、心に誓って願いいたしたのである。
時に、不可思議にも誓願いたして5分間ほどにおいて、心に大奇蹟なる現象が自現いたすに及んだのである。
かくして、主であろうか、女人の御声にて「誰ぞ、世に一人あらずやと、探し求めていました。」「逢いたかった、待っていました。」と、涙を流して願い求めし心を抱きしめ、包んでくだされたのである。まさに、人類大衆においては、理解難しき現象である。
こうして、抱いてくだされたいのちと、抱かれたいのちの2柱を持って、ともに修行精進いたすいのちの縁が、この世界において自現いたすに及んだのである。
これによりて、生誕33カ年の間自分が疑問をいだいていた叢雲が、自然に開け、理解できるようにいらしめていただいたのである。
宣ずるところは、神の子人間と俗名凡夫凡人の生誕の相違なるが原因であったということなのである。すなわち、聖人者と凡夫ということなのである。
こうして、主に従い、行学二道を修めさせていただく修行のなかばにおいて、主が哀れ悲しまれているという真実を心に観得させていただいたのである。
よりて、世はまさに人の心も天の心も哀れ悲しみある心にして、自由ある心にあらずということをして、自分は今いかなる祀事をいたすべきなのか、ということを決定いたすにおいて、立教開山を発願するに及んだのである。
天は、俗名修行者に本日をもって、大法師と名のって教えを説くようにと、申されたのである。しかし、大法師という文字を知らぬ故に、この右の手をもって畳の上にして写経をお願いいたしたら、天は大法師と過去のごとく文字を示し現わされたのである。
著書「人間と世界」の一節より
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