〜暮らしのハテナ〜「供養その1:供養のほんとうの意味は何?」

「供養」とは何でしょうか?
「供養」という言葉を聞き、文字で見たことがあっても、何をもって供養と言うのか、その真理を理解されている方は少ないように思われます。
身姿が臨終を迎えたとき、己の心なる「生命(いのち)」は、どうなるのでしょうか?身姿とともになくなるのか、それとも身姿が滅しても「生命(いのち)」は、この世界に在するものなのか?
身姿と生命(いのち)は別であるということを、理解している人は、数多くはいないものです。
しかしよく考えれば、もし臨終をもって身姿も生命(いのち)も同時に消滅するならば、葬儀なんて必要ないのではないでしょうか?
又、回忌法要も施餓鬼供養必要なく、霊前のお供え物はもちろん、お墓すら必要ないでしょう。
身姿が滅しても、生命(いのち)はこの世にあると思うからこそ、弔う心をそえて、人は回忌法要、盆、正月のお墓参りをしているのです。
霊魂不滅を信じるからこそ、佛壇に詣で、お茶、お水、お花、果物、御飯をお供えするのです。
このように、まず、身姿が滅しても、生命(いのち)は滅するものではない、ということを、理解することが、供養の第一歩です。
次に、霊魂不滅を信じてはいても、生命(いのち)を弔うにはどうしたらいいのかということに、真に目覚めて供養をしている人は、さらに少ないものです。
ローソク、線香に燈火をつけ、お茶、お水、お酒、御飯、果物、花をお供えし、読経をさせていただくことで、本当に供養は行き届いているでしょうか?
信にはそれだけでは足りない、心の学びの行いがあるのです。
「供養」という文字は、「養い供える」と書きます。
何を養い、供えるのか?
与え施す無欲の不設心、感謝の心、自らの慈愛をもって、安らかなる生命(いのち)の世界に導いてあげようという佛の生命(こころ)、己が心と異体同心ならしむる佛心を養い供える、ということです。
供養をする側が、文字や形のある唯物をもって「安らかなるように」と願っても、身姿のない生命(いのち)には、通じないものです。
形あるもの一切は、身姿なき生命(いのち)には無用の長物です。形ある唯物は、佛心を示し現すために、用い入るものなのです。
ローソク、線香に火を燈す行いに託された「佛心」、花を供え、御飯を供える行いで示される「佛心」こそが、身姿なき生命(いのち)には、最も必要なものであり、安らかなる心を成就いたすことの出来得る、唯一にして無二の供養なのです。
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